『官僚とメディア』 魚住昭 著

メディアと権力との接点で起きている出来事が明かされている一冊。いくつかの事件を取り上げ、報道の裏で権力サイドがどのように動いていたかについて詳らかにしている。
まず、2005年に発覚した耐震偽装問題(第三章、第四章)。
発覚当初、一級建築士姉歯秀次、マンション販売会社のヒューザー、及び木村建設の「悪のトライアングル」による偽装という報道がなされていた。しかし、その内実は姉歯による単独犯であったようだ。ヒューザー木村建設には、偽装を見抜けなかった落ち度はあるものの、少なくとも「偽装を共謀した」との報道は濡れ衣だった。
著者によれば、当初から「悪のトライアングル」の報道がなされた理由は、国交省による責任逃れ目的の情報操作にあるという。マスコミ、捜査機関はいずれも国交省の思惑通りに動いた格好になる。
続く第五章は、国松孝次警察庁長官銃撃事件(1995年)の実行犯として、オウム真理教元幹部が逮捕された件(2004年7月)。結論としてはこれは杜撰な捜査で、不起訴釈放となった。このとき、メディアはその杜撰さを疑問視せず、官庁の発表をそのまま流すことしかできなかった。
第六章は、ライブドア村上ファンド国策捜査の件。検察の暴走とも言える事態にメディアが沈黙しているのは、下手に検察を刺激すれば情報が下りてこなくなるため。
第七章はNHK番組改変問題。この章は「政治家とメディア」という趣である。政治の力で番組が捻じ曲げられる様子とともに、朝日が脛に痛い傷を持っていたためにNHKを追求できなかった点にも言及。
最後の第八章は、裁判員制度全国フォーラムの偽装広告。地方紙、電通最高裁の癒着の構図である。法を司るべき最高裁が、遡り契約など、稚拙な行為に及んでいた。
どの件も、メディアと官僚の節操のなさに呆れつつも憤りを禁じえない。メディアの影に隠れていれば、自身の動きは市民には伝わらない、という官僚の計算が見え隠れする。そして、官僚は、情報をエサにしてメディアを自由に操作できるのである。この構図を招いた原因はメディア側にもあり、そこを指摘した一節があったので引用しておく。

さらにもう一つ、日本のメディアの特質を作り上げているのが記者クラブ制度である。新聞やテレビが流す情報の七、八割(私の実感に基づく推測値)は各種の官庁から供給されている。記者たちの多くが官庁のなかに設けられた、閉鎖的な記者クラブに所属し、そこで役人のレクを受けたり、役人宅に夜討ち朝駆けをかけたりして情報をとる。記者たちに要求されるのは官庁情報をいち早く簡潔に、しかも正確に記事化することだ。それができる記者は優秀とされ、そうでない者には「ダメ記者」の烙印が押される。
そんな作業を長年続けていると、知らず知らずの間に官庁と馴れ合い、官僚と同じ目線で社会を見下ろすようになる。私自身がそうだったから言うのだが、記者たちはいつのまにか権力との距離感を見失い、最も大事な批判精神をなくしてしまう。(p.120)

しかし、新聞記者に「特権的な地位」が与えられているというのは本当だろうか。たしかに大手マスコミの記者たちは、記者章さえあれば不通の人が簡単には出入りできない首相官邸とか政党本部とか防衛庁検察庁、警視庁などの役所にも出入りできる。だが、それはこれまで見てきたように、日本に新聞が出現した明治以来、新聞社と官僚機構との間に形成された、もちつもたれつの馴れ合い関係の結果、獲得したものにすぎない。
そもそも報道とはそれほど神聖な仕事ではなく、情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事に過ぎない。そして、その商品の原料である一次情報の約七割(これはあくまでも私の実体験に基づく推測だが)は、官庁もしくはそれに準じる機構からただで提供されるものだ。そういう意味で報道に携わることを恥とするならともかく神聖視したり、特権視したりするいわれはまったくない。(p.172)

官僚とメディアとの馴れ合いの構図が続くとすれば、著者のような監視者としてのジャーナリストはいよいよ貴重になってくるのかもしれない。